香里ヶ丘シリーズ
88歳、香里ヶ丘を「記録」し続ける

[香里ヶ丘シリーズ]

88歳、
香里ヶ丘を「記録」し続ける

1960(昭和35)年から香里団地に暮らしはじめた福岡崇夫さん。88歳の今もカメラを手放さず、香里ヶ丘界隈の撮影を続けている。その原動力は何だろう。


福岡さんと写真との出会いは、子どもの頃。写真をやっていた父の暗室作業を手伝ったことから。ただ、自分でカメラを買って撮影しようと思うまでには、そこからさらに月日が巡る。電電公社の独身寮で先輩にそそのかされて、宝塚歌劇団の女優の卵をモデルにした撮影会に参加した経験が大きなきっかけとなった。

「その日に生まれてはじめて写真を写しました。だいたい足が見切れたりしてたけど、2枚だけ、きれいに写ったのがあったんです。それはいまだに置いてるけどね」

その数年後には結婚して、入居がスタートしたばかりの香里団地へ。その頃には写真家の土門拳の写真集を見るなどして、記録写真を撮ることを志していた。

「写真は記録やということに意識的でした。せやなかったら、こんなにも撮りませんよ。近所が冠水して川みたいになったりしたら、カメラを持って下駄履いて飛び出していってね。誰に見せるでもなく、まったくひとりでやってました。とにかく、写真が面白うて面白うて」

平日は勤めに出て、撮影は週末に。その繰り返しで10年、20年…。その間、特に発表することもなく撮り続け、現像は暗室にした自宅の浴室で。周囲の呼びかけに応じる形で初めて写真集の形にまとめたのは、2018年のこと。撮影を始めてから約60年が経過していた。

「団地もその周りも変わっていくからね。途中で発表するよりは、最後まで撮ってから発表しようと思ってました。撮り始めた頃の写真は焼付技術も下手やし、ええかげんなものが多いけど、これだけ長いこと撮り続けて記録してる人ってなかなかいないから、それはよかったなと思います」

これまでに撮影した香里団地界隈の写真は、およそ4000枚ほど。枚方を拠点とする写真クラブ「フォト旅人」にも所属して、写真仲間と氷見漁港や雲仙岳など、各地の写真も撮ってきたが、「ほうぼう行きましたけど、やっぱり香里団地の写真を撮るのが僕のメインですわ」という。

「88歳にもなったら、腰が痛なったり、耳が聞こえんようになったり。けど、写真をやめる気はないよ。今でもまだまだ毎日でも撮りたいわ」

〈福岡崇夫さんの撮影してきた香里団地〉
1960年の香里ヶ丘
1967年頃に開かれていた青空市場
豪雨で道路が冠水した時代も。1971年
1961年の第2室戸台風による被害。「香里ヶ丘にも街頭テレビがあってね、力道山のレスリングなんか映しとったんですよ」
香里ヶ丘は解体と再生を繰り返してきた。A地区とB地区の解体に向かうトラック群。2001年
B66号棟の解体。2002年
「やっぱりモノクロのほうが魅力あるね。いまはデジタルで撮ってるけど、ついカラーのデータもモノクロにしてしまう(笑)」
解体の途上。1996年
1995-96年、解体の始まったA地区の空き家にて。「定年退職した後、団地サービスの下請けで、建て替えの始まる空き家の管理をしてました。その関係で撮った写真もあります。当時の課長に写真撮る許可もらってね」

同行のカメラマンがカメラを取りだすと、「写真、 面白うてたまらんやろ?私はまったくのアマチュアやけど、他にも撮ってる写真あるから見てほしいわ」と話しかける福岡崇夫さん。それを横で見ながら「もう、お父さん(笑)」とたしなめる奥さん。写真で見てきた香里ヶ丘の60年が、そのまま2020年の現在に接続する。つながっている。

戦前は陸軍の火薬工廠だった土地を整地して生まれたのが香里ヶ丘ニュータウン。陸軍用地の石柱などもふくめて、香里ヶ丘に残る戦争遺跡はすべて撮影完了した
福岡さんが撮影した各地の写真も見せてもらった。現在はデジタルカメラで撮影
いまも変わらず香里ヶ丘の団地に暮らすふたり

☆取材後の昼ごはん

香里ヶ丘CORiOにある「インド料理 ミラン」にて。Aランチ(850円)で頼んだ日替わりカレーは、ほうれん草と菜の花と里芋のカレーでした。ナンはおかわり自由!

取材・文/竹内厚 撮影/西島渚

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