保坂小児クリニックの病児保育

[香里ヶ丘シリーズ]

保坂小児クリニックの病児保育
親子2代で健やかな暮らしをそっと、確かに支え続ける

日本の病児保育の先駆けとして50年以上前に香里団地に病児保育室を開設し、その運営に関わる保坂小児クリニック。院長の保坂泰介さんに地域とともにある小児科医としての考えを聞きました。

医療機関併設の病児保育室のパイオニア

「すべての子どもは、かけがえのない、宝物のような存在ですね」。朗らかにそう話すのは保坂泰介さん。香里ヶ丘3丁目に建つ保坂小児クリニックの院長だ。保坂小児クリニックは昭和38年に香里団地内に保坂医院として開院し、昭和44年に現在の場所に移転。以来、半世紀を超えて、団地を含めた地域の子どもたちに寄り添い続けている。

自身も香里団地で育った保坂泰介さん。団地の活気は昔から変わらないと話す。

保坂小児クリニックには「くるみ」という病児保育室が併設されている。一日に最大8人、発熱や感染症などの病気で保育所や幼稚園、小学校(低学年)に通えない子どもたちを預けることができる施設だ。病児保育室がスタートしたのは、医院が現在地に移転した昭和44年のこと。泰介さんの母であり、初代の院長である保坂智子さんが開設に関わり、医療機関併設の病児保育室のパイオニアとなった。

「香里団地は、昭和33年の完成当時、東洋一のマンモス団地と呼ばれていました。若い夫婦をはじめ、学者や政治家など、多様な背景を持った知識人も多く入居していたそうです。そんな中、みんなで話し合って何か新しいことをはじめよう、という機運があったようです。〈香里ヶ丘文化会議〉なるものも発足。その議題のひとつに保育所建設推進が挙げられていました。いかに多くの共働きの若い夫婦が移り住んでいたのかを物語るエピソードです」。

建物は昭和14年に建てられたもの。戦時中は兵器工場だったという。

その動きは、地域住民を巻きこんだ大きな運動に発展。ついに昭和37年の「香里団地保育所」の誕生に結実する。若いお母さんたちは、ようやくこれで育児と仕事の両立ができると考えたが、やがて、それだけでは不十分であることを知ったという。「発熱や下痢、嘔吐があると、子どもたちは保育所に行けません。結局、母親が仕事を休むという状況になります。これにどう対応するかが次の問題となりました」。

同じ頃、東京に病児を受け入れている保育所があるという話が伝わってきた。これを受けて、香里団地にもぜひ病児保育をという動きが生まれたという。「母は、愛知県犬山市出身ですが、たまたま医学研究者であった父が大阪大学での職を得たために、昭和33年に香里団地に移転してきました。今だから話せるのですが、母は大阪への移転に乗り気ではありませんでした。地元愛が人一倍強く、今も自宅には地元の犬山城や家族親戚の写真がたくさん飾ってあります。『大阪には知人もまったくいなかったから、数年で地元に戻るつもりだった』と子どもの頃によく聞かされました(笑)」。

そんな智子さんだったが、関西医大香里病院で小児科医として働きはじめ、昭和35年には長女を出産。その後も長男、次男(泰介さん)と3人の子育てと仕事の両立にはとても苦労した。「だから、病児保育の話が持ち上がったときに、まっさきに母が手を挙げたのです。このタイミングで母が香里団地にいなかったら、あるいは男性医師だったら、小児科医でなかったら、子育て中でなかったら…。どれひとつが欠けても病児保育の実現はなかったと思います。もちろん、母ひとりでできるものではなく、その実現には〈香里団地保育所の父母の会〉の全面的な協力がありました。病児保育を香里団地内で実現するために、多くのカンパやボランティア、行政による支援があったことは決して忘れてはならないことだと思っています。そして、病児保育の開始後も、数々の問題に直面しましたが、多くの働く母親たちから『病児保育がなければ仕事を続けられなかった、本当にありがたいです』と感謝の言葉を聞くたびに、母や運営に関わるスタッフは、『病児保育は絶対に必要なもの、決してやめてはいけない』という思いを強くし、問題を乗り越えていったようです。その熱い思いが病児保育を続ける原動力になり、今日に至っています」。

左)昭和54年に発行された10周年の記念誌より。右)保坂智子さんと泰介さん。

50歳を超えてからの新たな挑戦

泰介さんが智子さんからクリニックを引き継いだのは平成27年のこと。「実は僕、元々は整形外科医なんですよ」と泰介さん。20年以上整形外科医として多くの患者に当たってきた。
「医者になってからずっと整形外科の臨床や研究に明け暮れていました。朝から24時間手術室にいて、翌朝そのまま外来をやったこともありました。今思えばむちゃくちゃな働き方でしたが、当時は自身の向上に必要なことだと信じていましたし、しんどいとも全然思いませんでした」。
しかし、運命とはおもしろいものだ。泰介さんはこの後、予想外の医師人生を送ることになる。

保育室には2つの部屋があり、症状や病気によって使い分けている。

「自分自身に子どもができたことで、病児保育の重要性が初めて実感として理解できるようになりました。そして平成21年春、病児保育室開設40周年の記念式典に参加したのですが、そこで出席者が次々に病児保育への熱い思いを語ったり、これまでの歴史を振り返ったりする姿に接しました。病児保育室が地元で必要不可欠な役割を果たしているだけでなく、病児保育が国の制度として認められ、当施設をモデルにした病児保育室が全国に次々と誕生していることを知ったのです。一方で、すでに母は70歳後半。このままでは小児クリニックと病児保育室はいずれ閉鎖される運命にあり、そうなれば、地域の大きな損失となり、困ってしまう人々が続出するのではないかということにも気づきました。自分の代わりができる整形外科勤務医はいくらでもいるけれど、母が続けてきたクリニックと病児保育室を引き継げるのは僕しかいないのではないか…。このまま整形外科医を続けるより、小児科医となって母の仕事を継承し持続させることの方が、医師として、そして自分の人生において、より大きな社会貢献になるのではないか。考え抜いた結果、小児科医師になることを決意したのです」。

保育室継続のために、小児科医を雇うことも考えた。「でもいいやり方だと思えなかった」と話す。

医師には各科ごとに専門医という資格がある。その領域のエキスパートであることを認定される資格だが、その資格を取るには医師になった上で最低5~6年、指定病院で臨床研修に従事し、さらに認定試験に合格する必要がある。開業に必須の資格ではないが、患者さんに安心安全な医療を提供するためには小児科専門医の資格を得る必要があると考えた泰介さんは、保坂小児クリニックを引き継ぐと決めた年から専門医の資格を取るための研修を受け始めた。

「泰介先生が戻ってこられるのを、智子先生はすごくよろこんでいらしたんです」と保育士・塩山さんが当時を振り返って話してくれた。

「さすがに、整形外科専門医資格しかもたない小児科開業医、というのでは、ちょっと怪しい感じですし、何より、私が患者なら、そんなところに病気の我が子を診てもらおうなんて思わないですからね(笑)。しかし、一般的には20代半ばで医師になり、30代前半で専門医を受験し取得するのですから、50歳を超えて専門医を受験した僕はかなり珍しい部類だったと思います。何より、整形外科医を20年以上やって小児科医になる医者なんて、見たことも聞いたこともないですからね」と屈託なく笑う泰介さんだが、20年以上も積み上げたことを横に置いて、新しいことを始めることのたいへんさを想像してほしい。やらねばならないことでも実行に移すには相当な決心が必要だと思うし、泰介さんのように自主的に定めた目標ならなおさらだ。
「もう50歳をすぎた脳ミソに専門医の試験勉強はなかなかたいへんでしたが、自分の積み重ねた臨床経験の中に小児科学の学問的知識という芯を通すことができ、自信をもって小児医療を提供できるようになりました。また、小児科医仲間にも一人前として認められたようで、熱心な開業小児科医仲間が取り組んでいる各種の調査や研究にも声をかけてもらい参加させてもらっています。自分自身にとっても、小児科医としての可能性が広がったように思います」。

お昼寝の時間。散歩のできない子どもたちのために天井には青空を。

小児科医としての毎日はどうですか、と泰介さんに尋ねると「楽しいですね!」と元気な返事がすぐに返ってきた。元々、子ども好きだったのですかとさらに問うと「…実は、そうでもなくて。医学生のころ、病院実習で小児科を回ったときは、子どもが泣いたり、暴れたり…、これはたいへんだ、自分に小児科医は無理だ~なんて、感じてましたね(笑)」と。
「でも、この年で小児科医になってみると、医学生時代の思いはどこへやら。今はクリニックや病児保育で出会うすべての子どもが、本当にかわいく愛おしい存在です。そして一緒に来院されるお父さんお母さんたちを、心から応援したくなります。初受診の赤ちゃんが来院した際は、親御さんとも初対面なので、お互いにちょっとした緊張感があるのですが、赤ちゃんが笑顔を見せてくれると一気に場が和みます。また、予防接種の時には、我が子を抱いてやさしいまなざしで見守る親と、泣きながらも我慢して注射を受ける子の姿があります。そして注射が終わると、『ありがとう!』といって出ていく親子の様子。そんな姿に接するたび、『感動を与えてくれて、こちらこそありがとう!』という気持ちになります」。

目の前の患者さんのケガや病気を治すことのみに必死だった整形外科時代には感じることのなかった気持ちを日々感じているとのこと。クリニックの廊下には子どもたちからのお礼が書かれたメッセージカードが貼られており、「あんなの、大人はくれないですからね」とにっこり。日々の充実ぶりがにじみでている笑顔だった。

廊下の壁に貼られたかわいらしい文字で書かれた手紙など。

時代に合わせて変わる病児保育

いま、女性の社会参画に伴って病児保育のニーズは高まり続けている。核家族化、出産年齢の高齢化などから祖父母に面倒を見てもらえるという家庭は少ない。しかし、人材不足や採算面の問題などから病児保育の数は伸び悩んでいるのが現状だ。保坂小児クリニックとて楽に運営しているわけではない。

「病児保育って日本にしかないんですよね」と泰介さんが呟くように言った。例えば米国では、家族が病気になった際に看護休暇を取る権利が法律で保障されており、子どもが病気になれば当然のように休暇や早退をし、同僚たちがカバーするという。また、外国に比べて圧倒的に低い有給休暇取得率や、男性の育児休暇取得率にみられるように、どんな状況でも仕事を休んではいけないという意識が日本人に根付いているのも問題だという。
「今後は働き方改革により休暇が取得しやすくなる一方、働き手不足、外国人労働者受け入れなど、いろいろな要素が入り混じって、労働環境や人々の意識が大きく変わり、それに合わせて病児保育のあり方も大きく変化していくと考えています。そんな中でも、我々の病児保育室は、単に親の就労支援として子どもを預かる場所ではなく、モットーである『やさしい看護 ゆたかな保育』を通して、病気を乗り越えたくましく成長発達していく子ども達を、全力で応援する場所でありたいと思っています。その思いは今後もずっと大切にしていきたいですね」。

モットーは「やさしい看護 ゆたかな保育」。安全には特に気を配っている。

また、病児保育を必要とするのは働く大人ばかりではない。20年来「くるみ」に勤める保育士の塩山さんは言う。「子どもが病気のときってね、親も半分病気みたいなものなんです。子どもだけみてたらあかんよ、親をちゃんとみてサポートしてあげて、というのが智子先生からの教えなんです」。ときには「病気の子どもとの関わり方がわからない」と困った顔をして訪れる母親も。「相談できる場所が少ないのかもしれません。そんな時はまず、お母さんがゆっくり休んでねと伝えます。子どもさんは私たちに任せてねって」。

智子先生からの教えは、新しいスタッフに伝え続けていると話す。

1年間の「くるみ」の利用者数はのべ1300人くらい。泰介さんはもちろん、智子さんもほぼ毎日子どもたちの様子を見にくるそう。カルテが分厚くなるくらい頻繁に訪れる子もいれば、一度きりの子もいる。急いで元気にならなくてもいい。とにかく、その日一日ゆっくり過ごせるように、お父さん、お母さんも安心して仕事ができるように、と精いっぱい心を砕く。

子どもの元気は、大人の元気の源だ。子どもを持てば、誰もが感じることだと思う。
つまり、子どもの元気が街の元気を、そして社会の元気を作る。そんな健やかな毎日を、団地の片隅で静かに、そして使命感を持って支え続けている人たちの存在は、そこに住まう人々にとって、これからも確かな寄りどころであり続けるだろう。飾ることなく、淡々と使命に向かう姿がとても印象的だった。

子どもの元気な声がする風景は本当に愛おしい。

取材・文/清塚あきこ 撮影/坂下丈太郎

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