伯爵と行く
紅茶界の宝・芦屋のムジカティー

[芦屋シリーズ]

伯爵と行く
紅茶界の宝・芦屋のムジカティー

1952年、大阪・堂島で創業した[ムジカティー]は紅茶の名店として広く知られていましたが、2013年に惜しまれつつ閉店して芦屋へ。しばらく茶葉販売の店舗のみ営業されていましたが、2019年には喫茶部門の新店舗をオープン。店を構えたのは、「旧芦屋市営宮塚町住宅」という、石づくりの団地建築でした。

阪神間に生まれ育ち、紅茶と名建築をこよなく愛する「伯爵」こと、北夙川不可止(きたしゅくがわふかし)さんと芦屋の[ムジカティー]を訪ねました。


文・北夙川不可止

1964年兵庫県西宮市生れ。同志社大学神学部中退。歌人(「玲瓏」所属)、コラムニスト。著書に歌集『ぬばたま』(エディション・エフ)、『東西名品 昭和モダン建築案内』(書肆侃侃房)。


私は阪神間で、英文学者の父と、“魔都”と呼ばれた上海で旧制高等女学生だった母の間に生まれた。必然的に、古い日本語でいうバタ臭い、ハイカラな環境で育つことになったわけである。甘党で、珈琲は苦手ということもあり、幼い頃からココアと紅茶が大好きだった。子供時代から、リーフティーにしろティーバッグにしろポットや急須で淹れるのが当り前だったので、外で喫茶店などに入った時には、あまり紅茶は註文しない。日本では、紅茶を美味しく淹れてくれる店が極めてまれだからである。

そんな私が大学生になったのは1984年のこと。その年のうちに、サークルの先輩に「紅茶の美味しい店がある」と連れていかれたのが、今日お話する[ムジカ]である。そこそこ映画少年だった私は、当時、毎日新聞大阪本社新館の地下にあった[大毎地下劇場]という名画座によく行っていたが、そこから地下でそのままつながっている隣のビルの地下一階に、[ムジカ]があった。今では“ダンジョン”などと呼ばれることもある複雑怪奇な大阪・梅田の巨大な地下街の、そのまた一番端っこという隠れ家めいた立地。薄暗い店内にはクラシック音楽が静かに流れ、何より「家で飲むより美味しい紅茶」がポットでサーヴされ、ゆったりと時間をかけて楽しむことができる。その全てに一瞬にして魅了されてしまった。

今でこそ“英国式”を謳う“紅茶専門店”があちこちにできて、三段重ねのアフタヌーンティーも珍しくなくなった。しかし1984年当時、「紅茶をポットで淹れて、そのままサーヴする」という喫茶店は非常に珍しく、ほぼ皆無だったのだ。その頃は京都市左京区の学生寮に住んでいたので、大阪・堂島は決して近くはなかったのだが、以来、最低でも月に一度以上は足繁く通うようになった。大阪都心でサラリーマンをしていた頃など週2ペースで通っていた。ある年の正月明け最初の営業日など、午後早くに店に入りお茶していたら、次から次へと友人が「今日はここにいると思って」とやってきて、結局22時の閉店まで粘ってしまったこともある(さすがにその時は何度か追加注文はした)。私にとっての初釜である(笑)。
そう、もはや[ムジカ]は完全に私の生活の一部になっていた。独身のゲイであり、その上、料理も掃除も全くできない人間なので、実際のところ[ムジカ]は「自宅より寛げて、自宅より美味しいものを食べられるところ」となっていたのだ。

そんな2013年のある日、マスターである“紅茶界のカリスマ”堀江敏樹氏から、[ムジカ]の移転を聞かされた。青天の霹靂そのものであった。堀江氏自身、「国際郵便も『Dojima, Osaka, Japan』で住所も番地もなしで届く」ことを自慢されてたのに、まさか堂島の地から離れることがあるなんてと、心底驚いた。[ムジカ]は1952年に敏樹氏の父上が名曲喫茶として創業されて以来、当時の店で3店舗目ではあったが、いずれも大阪・堂島に所在し続けていたのである。

移転先は芦屋市精道町。阪神電車芦屋駅から徒歩5分ほどの国道43号線沿いであった。当時甲子園在住だった私にとってはむしろ近くなったのだが、新店舗は茶葉の販売店で、喫茶店ではなくなってしまったのだ。茶葉を購入すると「試飲」という形で店舗のロフト空間で飲ませては頂けるのだが、茶葉を袋や缶で購入すること、せいぜい1~2ヶ月に一度のことである。それまでのペースと比べると、[ムジカ]を訪ねる機会は大変少なくなってしまっていた。

精道町にある[ムジカティー]は茶葉販売専門。
ロフトの様子。店内に入れば国道沿いとは思えない雰囲気がある。

そして2019年に、宮塚町に[Tea Saloon MUSICA]として喫茶部門が復活することになったのだ。Saloonとは1954年に初代が堂島に名曲喫茶として創業した時に使われていた名称。今回の取材でお話を伺った三代目である堀江勇真氏によれば、三代の思いの結集として、勇真氏が新たに命名されたとのこと。

[Tea Saloon MUSICA]が入居する石積の建物は、旧芦屋市営宮塚町住宅という、団地だったところである。戦後の混乱がようやく収まりつつあった1952年に建てられた。奇しくも[ムジカ]創業の年である。
そのうち一棟が、どういうわけか、戦後の建物としては極めて珍しいのだが、鉄筋コンクリートではなく、石造なのである。その希少性もあり、2020年には国登録有形文化財にもなった。

宮塚町の[Tea Saloon MUSICA]は趣きある建物1階に。

三代目の勇真氏は36年間芦屋に住んでいて、この団地は現役で使われていた頃からよく知っていたという。4年前、そこが工事用の囲いで覆われて、そして活用案の公募が始まったのだ。勇真氏はそれに応募し、見事に採用された。それにより、新たに喫茶としての[ムジカ]が復活することになったのだ。

私が初めて[ムジカ]に行って感動してからでも、すでに40年近い。その間、何度か紅茶の「ブーム」がやってきたが、実際、紅茶文化は日本に定着しただろうか? 勇真氏いわく、それは「色付きのお湯」ばかり出している紅茶屋が悪い、ということである。そう、世に数多ある「紅茶専門店」が本当に美味しい紅茶を客に出していれば、人々は「色付きのお湯」にだまされたりしないようになるだろう。

フレーバーティーだけが紅茶ではない。勇真氏はこだわりを大切に、流行に乗らないという[ムジカ]の伝統を大切にすると断言する。実に心強い。定番茶葉の一つ、「堂島ブレックファースト」が誕生して30年以上。そして芦屋移転時に、「芦屋に根を下ろそう」と「芦屋プラウド」と名付けられたブレンドティーもラインナップに加わった。芦屋の老舗[アンリ・シャルパンティエ]も「芦屋プラウド」を使っている。

[ムジカ]の常連には、私よりさらに長く通っているという人も多い。親子二代、三代にわたる常連もいる。「ちゃんと紅茶が飲める店をしていれば、お客さんも喜んでくれる」と勇真氏はいうが、古い常連が多いということが、それを証明している。一度美味しいもの、本物の味を知った人間は、そこから離れられないのだ。[ムジカ]の紅茶を仕入れて使っているお店も、増えている。それも会社の方針がすぐに変わる大手より、店主のこだわりが生きる個人店が多い。百貨店への出店などは全て断っている。勇真氏は「思いは伝わる」という。本物は、派手に宣伝する必要がないのだ。

[Tea Saloon MUSICA]を訪れたら、内装にも注目してほしい。壁には紅茶入り漆喰が使われている。トイレには壁画がある。カウンターはムジカの木箱で造られている。ケーキは芦屋で教室を営んでいる常連さんのもの。そしてスコーンは勇真氏の自作で、堂島の地下店舗(二代目店舗)時代の味に戻したとのこと。
阪神電車の芦屋駅、打出駅、JRの芦屋駅から、それぞれ歩いて行ける距離である。文化財建築の中の、オーナーのこだわりが詰まった素敵なお店[ムジカ]。皆さんにも是非経験して頂きたい。
勇真氏の今後の夢は、紅茶博物館を作ることだという。それは素晴らしいものになりそう。私も楽しみである。

取材に応じていただいた堀江勇真さん。
世界中の紅茶缶がディスプレイされている。
ケーキもいただいた。こちらはウィークエンドシトロン。
[ムジカ]といえばのオリジナルのティーコジーも健在。
充実の紅茶メニュー、世界の紅茶図鑑のようで見ているだけでも楽しい。
「伯爵」の愛称で知られる北夙川不可止さん。注文の定番紅茶はウヴァ。
トイレの壁画は今川咲恵さんによるもの。精道町店の外観壁画も担当。

Tea Saloon MUSICA

住所/兵庫県芦屋市宮塚町12-24
営業時間/11:00~18:00 日曜休
電話/0797−38−8677

MUSICA TEA

住所/兵庫県芦屋市精道町10-7 矢島ハイツ1F
営業時間/11:00~19:00 日曜休
電話/0797−35−7727
https://musicatea.net/

おまけで
阪神間のはなし

阪神間と呼ばれるエリアは、明治末期~昭和戦前期にかけて日本で初めて“郊外住宅地”として拓けた地域で、のちに“阪神間モダニズム”と名付けられる文化が花開いた。文豪・谷崎潤一郎の代表作『細雪』は、上方文化に惚れ込んだ江戸っ子谷崎が丹念に紡いだ、戦前の阪神間の生活文化記録でもある。
巨大都市大阪と、その外港である神戸は、近代以降、急激に工業化が進み、住環境は悪化していった。また商工業の発達は、両市の人口を爆発的に増加させることとなった。そこに明治後期からの私鉄網の充実により、それまでは主に都市近郊の農漁業地域だった阪神間は、別荘地として、さらには住宅地として郊外都市化していったのだ。近世町人文化の隆盛を担った大坂の町衆=ブルジョワ層の豊かな古典教養と、港町神戸のハイカラな欧風文化が融合し、“阪神間モダニズム”が成立したのである。当初流入したのもまず上流ブルジョワ層、続いて中流ブルジョワや新興階級たる都市中間層(サラリーマンという和製英語は当時登場した新しい市民層だった)であり、当時の社会で高等教育を受けた、教養人であった。

文/北夙川不可止 撮影/ハヤシシゲミツ 編集/竹内厚

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