[泉北ニュータウン]
泉北を見つめて50年。
2200号を超えて継続する『泉北コミュニティ』を今こそ!
皿谷直三さんインタビュー
2023.02.23
さまざまな活性化プロジェクトが行われ、新しい風が吹こうとしている泉北ニュータウン。今、注目を集める街の開発当初からずっとこの街を見つめてきたメディアがあります。それが、今年で創刊52年になる地域情報紙『泉北コミュニティ』です。
ポストに無料配布されるローカル・メディアはほかの街にもあるけれど、レイアウトも記事の書き味も、それらとはまるで違う。そして、頑なに「泉北以外のことは載せん!」という還元濃縮の泉北愛が、インクで刷られている。すると、その誌面上は、創刊当初はまだ「陸の孤島」だった住民の大事なコミュニケーション・ツールになったのです。
御年81歳、名物編集長の皿谷(さらがい)さんにお会いして、独走そして独創するメディア『泉北コミュニティ』のこと、聞いてきました。

横のつながりなき住民のため、夫婦が“おうち編集部”を始動。

― 『泉北コミュニティ』は、創刊当初は『泉北こんにちは』という名前だったそうですね。創刊号には「発行・編集 さらがい直三」と個人名が載ってますが、皿谷さんおひとりで発行されてたんですか?
僕と嫁さんのふたりで、当時住んでた府営住宅でやってたな。夫婦だけで作ってたんは、2、3年かなぁ。
― 『泉北こんにちは』の創刊は1971年4月1日、泉北高速鉄道が開業した日ですね。
僕はね、それまでは教科書の編集をしとって、それから新聞社に転職した。教科書と新聞で編集テクニックをマスターしたわけや。でも、新聞社はちょろっとおって、すぐ辞めた。鉄道が泉ケ丘駅まで開通するから、地域のメディアを立ち上げようと思ってな。


― なるほど、新聞社ご出身だったんですね。どうりで視点が鋭く、創刊号の一面記事も「高くつく泉北“大動脈”」の見出しで、泉北高速鉄道の開業当日に運賃の高さを指摘されてます。
そんなことしとったかぁ。まぁ僕がなんで泉北ニュータウンの住民に向けたメディアを作ったかというと、新聞の地方版は今でもそうやけど、地方版なんていうのは名前だけで、その地域の身の回りの情報が載ってないんよ。泉北ニュータウンの住民がほんとうに知りたい情報というのは、どこにどんな施設が新しくできるか、どんな催しが開催されるのか……そんな生活情報。住民が中心の誌面、住民が交流できるメディアになりたい、とはじまったわけ。
― 当時はまだ開発が始まったばかりの泉北ニュータウン。まだ「陸の孤島」だった街だからこそ、住民を主軸としたメディアが必要だ――と、皿谷さんは思われたんですね。
どうしても新聞の地方版いうたら、市議会や市の行政がなんだ、県会議員がどうじゃこうじゃと、そういうのが中心になる。ウチはそんなもん扱わへん。誰が県議会の議長になったかなんて取材対象じゃない。梅田や天王寺のことも書けへん。その編集方針は今も変わってないね。

― 皿谷さんがおいくつのときに創刊されたんでしょう。
今82歳やから、29歳ぐらいの頃か。
― 『泉北こんにちは』は、創刊翌年の1972年3月に『泉北コミュニティ』に改称されたんですよね。
国が「コミュニティ」という言葉を打ち出して、「これからは地域にコミュニティを作っていかなアカン」と言った。それで僕は、さっそくその単語を使ったね。泉北ニュータウンの住民もどんどん増えて、それにつれて部数も増えた。さらに発行回数も増えて、創刊時は月2回やった『泉北コミュニティ』は、1982年から週刊に。姉妹紙の『金剛・さやまコミュニティ』(1978年創刊)も月2回発行してるから。
― ポストに無料配布されるコミュニティ誌が、なんと週刊! 2000年代って多くの紙メディアは部数が減るんですけど、データを拝見すると、むしろ時代をまたぐたびに部数が増えてる…。
地域密着に徹してるから。地元の人にウケるんやな。

できたてホヤホヤの街に生まれた、それは紙の“掲示板”。
― 創刊して半世紀超、発行2200号超という驚愕のローカル・メディアである『泉北コミュニティ』ですが、創刊号から今も続くコーナーってありますか?
創刊当初からあるのは、「譲ります/譲ってください」のリサイクルコーナーやね。泉北ニュータウンに移り住む人はみんな若い人やったから、乳母車に幼稚園の制服を譲ってほしいとか、そういうたぐいの投書が多かった。
― 住民間のおさがりシステムというのは、新しくできたこの街ならでは、そしてネットのない時代ならではですね。でも、創刊当初から投書を集めるのって、難しくないですか?
だから最初は、ウチの嫁さんがスーパーの前で「乳母車が欲しかったら載せてあげるよ」と、声かけをしてた。そんなことを2、3回やったら、クチコミはすぐ広がる。そんなもんよ。

― 個人的な推しコーナーは「ありがとう」の欄です。とある号では、銀行ATMに財布を置き忘れた「川田さん」が、財布を交番に届けてくれた人に感謝されています。
ウチは住民の交流の場やから。80年代になると、誌面を通じて泉北にはいろんなサークルが誕生した。「つどい」という欄があって、探鳥会、山登りの会、古代史教養講座の会……次々にサークルができて、盛り上がりはすごかった。

― 掲示板のようなメディアなんですね。
そうそう、ええこと言ってくれる。誌面にも書いてるけど、ウチは「なんでもご連絡を」の精神。なんでも言うてくれたら、なんでも載せるで、っていうやつやわ。それが僕の会社の機能。編集部に“情報センター”っていう別名まで付けてるから。

― その情報センターに専属の電話番がいるんでしょうか。
編集部で対応するね。この「なんでもご連絡を」が必要やなぁと思ったのは、ある日な、60歳ぐらいのおっちゃんが子ども連れて編集部に来てん。それでなにを言ったかというと、「ウチの嫁さんがおらんようになったんや! 困っとるんで紙に載せてくれ!」と。で、1か月後にまたおっちゃんが来て、「あのときはすんませんなぁ。嫁さん帰ってきたわ!」って。おっ、これは大事な役目やなぁと思ったね。あと、「インコが逃げてきたから、ウチの家で預かってるで~」みたいな電話も多かったね。
― なんでも言うてきて精神で、住民の身近な存在になってる。
そうよ。今でも(おたよりは)メールより電話がかかってくるほうが多いよ。電話のほうがそりゃあ融通が利くやんか。

― びっくりしたのが、手描きイラストを利用した「まちがいさがし」のコーナー。このイラストも、読者の人からハガキで送られてくるんですよね。
そりゃあそうよ。ウチは住民が主体のメディアやからね。
― 「そりゃあそう」と軽く言われますが、ここまで住民参加型メディアを徹底されるのはすごい…。そして表紙も、この街に住む子どもたちの絵なんですよね。
表紙の絵も送られてくるね。子どもの絵が採用されるというのは、親がうれしいのよ。あと表紙の絵でいうと、幼稚園とか学校に編集部員が出向いて、絵を預かることもあるね。

泉北ニュータウンを見守り続け、唯一無二の存在を確立。
― ポスティングされる地域情報誌って、基本的には広告媒体のイメージです。例えば出稿元である飲食店が、この誌面を見たと伝えればランチを安くします、みたいな記事が主体。でも『泉北コミュニティ』は、街で今なにが起こっているかという地域ニュースを伝える新聞的役割と、住民どうしのコミュニケーションを生む掲示板的役割に徹してますよね。
地方のメディアいうのは、だいたいが営業畑の人が作るからね。新聞の編集整理を徹底的に学んで作ってる人は少ない。載せる情報だけやなしに、割り付け(誌面レイアウト)からして全然違う。
― 見出しひとつとっても新聞そのものですよね。
垢抜けてるやろ? 活字の大きさ、見出しの立てかた、割り付けにしても大手の新聞なんかと比べても恥ずかしゅうない。なぜなら僕は、もともと新聞社にいて日刊紙を作ってたからね。今も新聞社と同じスタイルの仕事をしとるわけや。新聞と違うのは、書体と規模だけ。新聞の編集整理というのは職人の仕事やから、下の世代の子に引き継いでいかんとな、と今はノウハウを教えるのが仕事。僕が今、記事を書くのは2、3ヶ月に一本ぐらいか。

― ちなみに記事を書かれるときはパソコンを使われるんですか?
あぁ…アカンな。僕だけまだ鉛筆と消しゴムを使って、今も原稿用紙やね。

― 『泉北コミュニティ』は今の泉北を伝えるメディアではあるものの、昔の街の写真も誌面に多用されますよね。それは、この街の歴史を知ってもらいたい、という想いからでしょうか。
そうそう、昔のことを知らん人も多いからね。ウチには創刊から撮ってきた街の写真が全部保管されてる。それこそ大昔の泉北ニュータウン建設当時の写真もいっぱいある。役所が持ってないほどの量があるわ。
― それって街の財産ですよね。
地元の学校でもね、開校50周年とかの創立記念日になると、資料として写真を借りに来るわ。
― つまり編集部が、街のライブラリーの役割も果たしていると?
そういうことです。編集部内に資料室まであるからね。

『泉北コミュニティ』
泉北ニュータウンや和泉中央などのエリアに配布する地域情報紙。『泉北コミュニティ』は第5週目をのぞく毎週木曜発行で、発行部数は約65,000部。姉妹紙の『金剛さやまコミュニティ』は毎週第2・4木曜発行で約35,000部。
事務所でバックナンバーを無料配布するほか、ポータルサイト『泉北・金剛さやまコミュニティ』でも最新号ならびにバックナンバーの閲覧が可能。

取材・文/廣田彩香 写真/岡本佳樹 編集/竹内厚