梅田のまち歩き辞典をつくろう! 01

[梅田シリーズ]

梅田のまち歩き辞典をつくろう! 01

ターミナル、地下街、高層ビルで埋め尽くされたように見える大阪・梅田。ですが、実はまち歩きにも適した、さまざまな歴史と文化の積み重なったエリアなんです。
そこで、大阪各地のまち歩きをガイドしている陸奥賢(ムツサトシ)さんにお願いして、梅田がもっと楽しくなるキーワードを少しずつ紹介してもらいます。今回は、兎我野やマルビルにまつわる話。


牛の藪入り
[うし-の-やぶいり]

梅田の北野あたりでは、江戸時代、5月5日の端午の節句に「牛の藪入り」という行事が行われていました。藪入りとは、奉公人が故郷へ帰って休むことを言いますが、その代わりに花飾りをつけた牛をのに放ち、ストレス発散をさせて、粽(ちまき)を食べさせていたとのこと。粽は疱瘡(ほうそう)という当時の感染症の予防にもなるとされ、子どもたちにも配られたそうです。

:梅といえば天神さん。天神さんの使いといえば牛。梅田と牛の関係は意外と深そうです。今のグランフロントあたりも昔は牛丸町と呼ばれてました。牛が丸まっていたのかモー?


大日本ドケチ教
[だいにほんどけちきょう]

梅田のランドマークのひとつ、大阪マルビル。かつて、そのオーナーとして知られたのが、梅田の大地主である吉本家に生まれた吉本晴彦氏(1923~2017)です。祖父の彦太郎氏にどケチ道を仕込まれた彼は、1970年に著書『どケチ人生』を出版してベストセラーに。大日本どケチ教を創設しました。言葉の響きは強烈ですが、見栄で使う「死に金」ではなく、自分の本当に大事なものにお金を使う「生き金」こそ大事だと説かれています。

:東京にも丸ビルはありますが、あちらは丸の内のビルだから丸ビル。大阪・梅田のマルビルはほんまに丸い。東京人は「さすが大阪。本当に丸いとは…」とうなったとか。

谷三兄弟
[たに-さんきょうだい]

それぞれに新撰組で活躍した谷三兄弟、その供養墓は兎我野町の本傳寺にあります。谷三十郎は新撰組七番隊隊長で槍術指南役も務めました。谷萬太郎は新撰組大坂屯所隊長、谷周平はあの近藤勇の養子となり、近藤周平と名前を変えました。本傳寺は萬太郎の妻の実家の菩提寺にあたります。本傳寺は、文禄年間(1592~1596)から続く日蓮宗のお寺です。

:近藤周平こと谷周平は、明治維新以後も生き残り、神戸に移住して山陽電鉄に就職して鉄道マンになりました。まさに剣の道から鉄の道に生きた男です。


兎我野の鹿
[とがの-の-しか]

梅田の兎我野町といえば、いまでは夜のディープスポットという印象もありますが、この兎我野という地名は『日本書紀』にも出てきます。
夜な夜な兎我野の鹿の鳴き声を聞いて、心を慰めていたのは仁徳天皇。ところが、その鹿の鳴き声が聞こえなくなり訝しんでいたところ、部下の佐伯部が鹿を献上に現れます。仁徳天皇は兎我野の鹿が狩られてしまったことを知り、佐伯部を安芸(広島)へ左遷したとのこと。

:豊中に移転しましたが、かつては兎我野に不動寺があり、白鹿堂がありました。牛がいたり、鹿がいたり…いまの梅田からはまったく想像できまへん。


菜種御殿
[なたねごてん]

こちらも兎我野町の話。豊臣秀吉の時代、菜の花の名所として知られた「菜種御殿」という遊所があり、秀吉も訪れたといいます。「菜種歌」として歌われた「蝶や蝶や蝶々やとまれや、菜の葉にとまれ、今日は彼岸の春日和」という一節は、明治時代に唱歌として広まった「ちょうちょう」の元歌とも言われています。

:昔は菜種油が唯一の夜の光源でした。菜種御殿はもしかしたら菜種油でこうこうと光る不夜城のような遊所で、「夜の街・梅田」のはじまりかもしれません。

参考文献:
『日本遊里史』(著・上村行彰/藤森書店)
『「新撰組」全隊士録』(著・古賀茂作、鈴木亨/講談社)
雑誌『郷土研究 上方』(創元社)


陸奥賢

1978年大阪生まれ。「世界観に光をあてて揺さぶる」をモットーに「大阪七墓巡り復活プロジェクト」「まわしよみ新聞」「直観讀みブックマーカー」「当事者研究スゴロク」「劇札」「歌垣風呂」「仏笑い」など、日夜、妙な遊びの仕組みを作って世間に広めている。


文:陸奥賢 編集:竹内厚

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