陸奥賢さんと 梅田のまち歩き辞典をつくろう! 07

[梅田シリーズ]

陸奥賢さんと
梅田のまち歩き辞典をつくろう! 07

ターミナル、地下街、高層ビルで埋め尽くされたように見える大阪・梅田。ですが、実はまち歩きにも適した、さまざまな歴史と文化の積み重なったエリアなんです。
大阪各地のまち歩きをガイドしている陸奥賢さんにお願いして、梅田がもっと楽しくなるキーワードを少しずつ紹介してもらいます。今回は、福沢諭吉と大石内蔵助の父に大阪七墓巡り、トレビの泉まで!


暁鐘成の墓
[あかつきかねなる-の-はか]

阿呆陀羅経
[あほだらきょう]

天野屋利兵衛の屋敷
[あまのやりへえ-の-やしき]


牛の藪入り
[うし-の-やぶいり]

梅田墓地
[うめだぼち]


圓頓寺のサギ
[えんどんじ-の-さぎ]


大石内蔵助の父
[おおいしくらのすけ−の−ちち]

赤穂事件で有名な大石内蔵助良雄は浅野家の筆頭家老でした。曾祖父の良勝、祖父の良欽も筆頭家老でしたが、父の良昭は筆頭家老になる前に若くして病に倒れ、浅野家の大坂屋敷で亡くなりました。その墓が円通院に。円通院と大石家の繋がりはよくわからないそうですが、「忠臣蔵」人気の影響か、戦前は「明昭會」という組織ができて墓を守っていたといいます

:大石良雄は元禄14(1703)年4月、赤穂藩がお取り潰しになった後、家族を先に大坂へ移住させ、自身も大坂に立ち寄っています。良雄の長男、大石主税良金は大坂滞在中、母のリクと船に乗って天神祭を一緒に見たという記録もあります。大阪天満宮と円通院は目と鼻の先ですから、もしかしたら円通院にも足を延ばしていたかもしれません。ちなみに、良昭(1640~1673)、良雄(1659~1703)、良金(1688~1703)。

大阪プールの飛び込み台
[おおさかぷーる-の-とびこみだい]

大阪タワーとゴモラ
[おおさかたわー-と-ごもら]

大阪駅の初代駅長
[おおさかえき-の-しょだいえきちょう]

屋上ビアガーデン
[おくじょう-びあがーでん]


怪盗イナズマ小僧
[かいとういなずまこぞう]


キタの九階
[きた-の-きゅうかい]


空中庭園大明神
[くうちゅうていえんだいみょうじん]


ゴモク山の妖怪
[ごもくやま-の-ようかい]


渋谷ビール
[しぶたにびーる]


線路小屋のタアヤン
[せんろごや-の-たあやん]


ソーライス
[そーらいす]


大日本ドケチ教
[だいにほんどけちきょう]

谷三兄弟
[たに-さんきょうだい]

タレベン
[たれべん]


TKPゲートタワービル
[てぃーけーぴーげーとたわーびる]

手塚太郎と大阪控訴院
[てづかたろう-と-おおさかこうそいん]


兎我野の鹿
[とがの-の-しか]

トレビの広場
[とれび−の−ひろば]

阪急三番街は、万博開幕の前年、1969年に現在の阪急梅田駅の拡張移築とともに開業。人工の川が流れていることでも知られますが、フロアの中心に位置する地下2階の「トレビの広場」は、その水源ともなっています。大阪は水の都ということで、こうした地下街空間が作られそうですが、高度経済成長期の大阪の勢いのようなものを感じます。阪急三番街は2014年には「生きた建築ミュージアム」にも認定されました。

:当初、「トレビの広場」には名前がなく、開業後にお賽銭(?)を投げこむ人が続出したところから、広場の名前を公募したところ、この名前になったとか。コインを入れると願いがかなうというローマの観光名所がそのまま元ネタです。昭和54年にはお賽銭が1800万円を突破した…という記録なんかもあります。


ナマズ稲荷
[なまず-いなり]

菜種御殿
[なたねごてん]


歯神社
[はじんじゃ]


不吉橋
[ふきつばし]

明治7(1874)年、佐賀藩屋敷跡(今の西天満2丁目辺り)に大阪懲役場ができました。死刑囚も留置され2〜3人ほどが刑に処せられたといいます。懲役場から飛田刑場まで約2時間かけて歩かされたとか。このとき家族、親戚は罪人に末期の水(酒)を飲ますことが許されていたので道々で待ち構えていました。土佐堀川にかかる栴檀木橋(せんだんのきばし)は、この罪人が通るところから不吉橋といわれたりもしたようです。懲役場は明治21(1888)年、移転合併して大阪府監獄署に。わずか14年ばかりのことでした。

:罪人の護送にはモッコを担いだ者が必ず同行しました。どれだけ悪態をついている重罪人でも腰が抜けて歩けなくなるそうで、その時はモッコに入れて担いだといいます。現在の美しい中之島界隈の光景からは想像もできない歴史の一幕です。

福沢諭吉の父
[ふくざわゆきち−の−ちち]

福澤諭吉は中津藩士ですが中津藩の大坂蔵屋敷(今の福島1丁目)で生まれました。父の百助はここで加島屋、鴻池といった豪商相手に藩の借金返済を交渉する勘定方の仕事をしていましたが、本当は漢学者になりたかったようです。中津藩でも有数の蔵書家だった百助は1500冊もの書物を所有、それでも封建社会の身分制度が学者への道を許しませんでした。そして、諭吉が1歳6か月の時に病死。諭吉は父の無念を思い、「門閥制度は親の敵」という有名な言葉を残しています。

:諭吉という名前は、清国の法律書『上諭条例』を入手して喜んでいた百助がここから名付けたそうで、この本は戦後に中津で発見され、現在では慶應義塾が所有しています。百助が集めた貴重書は諭吉の大坂遊学の際に売却され、勉学費にもなりました。偉大な父の遺産によって諭吉は学者として大きく羽ばたくことができたといえます。

福永稲荷大明神
[ふくながいなりだいみょうじん]


松下幸之助の水道哲学
[まつしたこうのすけ-の-すいどうてつがく]


南濱墓地
[みなみはまぼち]

江戸時代、盆の頃に「大阪七墓巡り」という町衆の巡礼がありました。7つの墓地の無縁仏を供養するというもので、梅田、南濱、葭原、蒲生、小橋、千日、飛田などが有名です。そのうちのひとつ、南濱墓地は奈良時代の高僧・行基菩薩が開基したという伝説があります。大塩平八郎の一族の墓、歌舞伎『関取千両幟』のモデルになった力士・猪名川の墓などが南濱墓地にあります。

:江戸時代に七墓巡りをやっていた人たちは、どういう人たちであったのか? は謎ですが、近くの源光寺の境内には「七墓道」の石碑も残ります。石碑が作られるほど巡礼者が多かったということかもしれません。また、七墓巡りには「自分の葬式が晴れる」「性病が治る」といった妙なご利益、信仰もあったようです。


ワールド
[わーるど]

王仁博士
[わにはかせ]

参考文献:
『摂陽群談』(著・岡田渓志)
雑誌『郷土研究 上方』(創元社)
『大阪人物辞典』(編・三善貞司/清文堂)
『大阪史蹟辞典』(編・三善貞司/清文堂)
『朝日 日本歴史人物事典』(朝日新聞社)
『北区史』(編・大阪都市協会)
『福翁自伝』(著・福沢諭吉)
『100年のあゆみ』(阪急阪神ホールディングス)


陸奥賢

1978年大阪生まれ。「世界観に光をあてて揺さぶる」をモットーに「大阪七墓巡り復活プロジェクト」「まわしよみ新聞」「直観讀みブックマーカー」「当事者研究スゴロク」「劇札」「歌垣風呂」「仏笑い」など、日夜、妙な遊びの仕組みを作って世間に広めている。


文:陸奥賢 編集:竹内厚

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