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  • 西尾孔志が聞く、『寝ても覚めても』濱口竜介監督インタビュー No.2

西尾:そうなんですね。あらためての質問になりますけど、日本で過激さを描くと暴力か性愛かになるところ、そちらにはいかないで、未成熟な少女のような恋愛というのか、恋愛の一途さ、過激さがこんなにも世界とぶつかるんだという、このテーマに濱口さんが惹かれる理由ってなんでしょう。

濱口:うーん、わからないな。どうしてかな。実はぶつかることによってしか、個人の輪郭ってわからなかったりするじゃないですか。イエスと言い合ってる関係性ではお互いの輪郭が掴めなくて、ノーを突きつけることによって、「あ、こんな人なんだ」ってわかったり。それは、自分にとってなのかもしれないけど、人の輪郭、人の境界線がわかるというのは拒絶を経てだと思います。拒絶があって初めて世界と出会う、他者と出会う。そういう体験ってつらいんだけど、人生のなかでは決して嫌なだけではなくて、世の中ってこうなんだって思える体験が好きなんじゃないかな。どこが人との境界線なのか、知らないよりは知ってみたいという。

西尾:個人的な意見ですけど、海外の映画では大人が明確に描かれるのに対して、日本映画では大人といえば、過剰な大人というか、熱い芝居で圧の高い凝り固まった大人が出てきたり、一方で、若者といえば成熟してない形で描かれる。それが、僕は昔から日本映画のコンプレックスだと思ってたんですね。日本映画は成熟を描かない。でも、今回の『寝ても覚めても』では、主人公が成熟しないままでずっといることで、過激に純度が増していって、最後はこういう人物になるんだって驚きました。知り合いの女性にもこういう人いるなって思い当たったり。濱口監督にとって、今回の映画では成熟についてどう考えていたかをお聞きしたいです。

濱口:成熟という言葉で考えたことはないけど、前に別の取材で「大人の恋愛映画と銘打ってますが、どこが大人の恋愛ですか?」という質問を受けました。つまり、「この映画の主人公は成熟してない、子どもじみた振る舞いじゃないか」って含意を勝手に感じたんですけど。ただ、では、はたして自分の気持ちを抑えこんで、人と一緒にやっていくという選択が成熟なのですかと問いたい気はしますね。

西尾:なるほど。

©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会/ COMME DES CINÉMAS

濱口:おそらく成熟というものがあるとするなら、自分も他者も同時に大事にする方法を発明するってことなんですよ。自分だけを大事にするわけでもなく、他者に尽くすだけでもなくて、どうやって自分と他者を同時に大事にできるんだろうかという問題がある。そのためには、当たり前ですけど、自分の感情に対して率直になるというのは絶対的な条件なんだと思います。「他者を気遣う」ことばかりが是とされる社会の中では、この成熟の条件は見逃されている。だから、等しく重要なのに抑圧されている方を強調した、という点では過激なのかもしれない。主人公の朝子が信用できないと思う観客もきっといるでしょうけど、僕の印象としては、これほど信用できる人もいない。こういう人が誰かと一緒にいることを選択したということは、その人がいたいから一緒にいるのだということが非常に明確なので、とても信頼できるんじゃないかと思ってます。

©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会/ COMME DES CINÉMAS

西尾:ありがとうございます。借り暮らしをテーマにしたウェブマガジンなので、家についてもお聞きします。最初に出てくるのが縁側のある家で、人が集まって団らんをする場面も出てくる。2番目がシェアハウスで、ふたりの人間が共同で住んでいる。で、最後が主人公たちがふたりで暮らそうとする家。買ったのか、賃貸なのか…。

濱口:賃貸ですよ。

 

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THE BORROWERS

借り暮らし、貸し借り、賃貸にどんな可能性がひそんでいるのか。多彩に活躍する方々へのインタビュー取材を通してその魅力に迫ります。いいところ、大変なところ、おもしろさ、面倒くささ…きっといろんなことが浮かび上がるはず。

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