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  • 『URひと・まち・くらしシンポジウム』より 甲斐徹郎さんが語る コミュニティを機能させる方法とは No.2

3. でも、コミュニティなしでは生きていない

これだけ便利になってるわけですから、コミュニティに依存しなくても私たちは生きていけます。それでもコミュニティは本当に必要なのでしょうか。もうこれからは、コミュニティは不要になってしまうのでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。
このことを考えるために、ふたつの状況を皆さんに提示します。どちらかを必ず選んでください。
Aは「逃亡者」です。
悪いことをしたわけではないですが、自分のこと知る人のいない土地へ行って、自分の素性を明かさずに生きていかなければなりません。そして、生涯、その土地をでることはできません。
Bは「記憶喪失」です。
ある日、目を覚ますと記憶が失われていて、自分自身が誰なのかわからない。けれども、周囲の人は自分のことをよく知っていて、親切に接してくれます。そして、生涯、自分の記憶は戻りません。
このAとB、あなたはどちらの状況を選択しますか。必ずどちらかを選んでください。

……実は、この問いに答えはありません。何が正しいのかという話でもありません。どちらを選ぶのも嫌ですし、悩まれたと思います。この問いかけは、他者との関係なくして、自分という存在は成り立たないということを確認するためのものでした。自分らしさ、アイデンティティというのは、常に自分と他者との関係で成り立っているということ。実は、このことが本質的なコミュニティの意味だということに気付かれたでしょうか。つまり、煩わしいのは嫌だけれど、一人ぼっちも嫌。人には認められていたい。この矛盾のなかで、コミュニティをうまくつくり出し、つき合っていかなくては、私たちは幸せにはなれないということなのです。
次に、この矛盾をどのように解決していけばいいのかという話をしたいと思います。

4. 煩わしさを意識させずにコミュニティを機能させる方法

多くの人がコミュニティを煩わしく思うものだということを前提として、それでもコミュニティを機能させるためにどうすればいいか。そのために私が編み出したコンセプトがあります。それは、「コミュニティベネフィット」という考え方です。これは、コミュニティを目的とせずに、手段とすることで、個人の単位では不可能なほどの大きな価値を実現させるという考え方です。個人単位では手に入らない大きな価値を得るためにはコミュニティが必要で、それを手段として活用しようというのが「コミュニティベネフィット」の考え方です。

このことを先ほどの世田谷の欅ハウスの例で説明しましょう。欅ハウスは、「コーポラティブ方式」という事業方式が採用されました。私たちが集合住宅を購入するという場合、マンション開発会社が建設し、出来上がった一室を購入して住むというのが一般的ですが、コーポラティブ方式の場合は、入居予定者が集まって建設組合をつくり、その組合が発注主となって設計、施工会社と直接契約を結び、集合住宅を建設するという方法で進められます。
こうしたプロジェクトを成功させるための心構えについて、私は参加者に対して次のような説明をします。それは、「仲良くなることが目的ではないので、がんばって仲良くなろうとする必要はない」ということです。参加者全員が仲のいい人間関係が形成されるかどうかは、気にしない方がいい。全員が仲良くならないといけないと位置づけると、それが強迫観念となり、そこにこのプロジェクトに参加することの息苦しさが生まれます。重要なのは、仲がいい悪いに関わらず、個人単位では実現できない価値を手に入れるために協力し合う、という合理主義的な考え方なのです。
ですから、私がコーポラティブ事業をコーディネイトする場合、建設組合活動において「人間関係」をつくりだすことにあえて重きを置かないようにするのです。重点を置くべきポイントは、事業の中で、常にその場面での「コミュニティベネフィット」は何かを明確にすることです。つまり、個人単位では手に入れることのできない大きな価値とは何かを明確にし、その価値創造のための必然として、協力関係を導き出すことを意図するのです。協力し合うことの目的が明確であれば、参加者の合理的な意思に基づいた合意形成が円滑に進みやすくなります。 そして、欅ハウスの場合の「コミュニティベネフィット」こそが、樹齢250年の欅の樹を暮らしの中心に位置付けることだったわけです。
私が実践した煩わしさを意識せずにコミュニティを機能させるということは、そういう方法です。

3. でも、コミュニティなしでは生きていない

これだけ便利になってるわけですから、コミュニティに依存しなくても私たちは生きていけます。それでもコミュニティは本当に必要なのでしょうか。もうこれからは、コミュニティは不要になってしまうのでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。
このことを考えるために、ふたつの状況を皆さんに提示します。どちらかを必ず選んでください。

Aは「逃亡者」です。
悪いことをしたわけではないですが、自分のこと知る人のいない土地へ行って、自分の素性を明かさずに生きていかなければなりません。そして、生涯、その土地をでることはできません。
Bは「記憶喪失」です。
ある日、目を覚ますと記憶が失われていて、自分自身が誰なのかわからない。けれども、周囲の人は自分のことをよく知っていて、親切に接してくれます。そして、生涯、自分の記憶は戻りません。
このAとB、あなたはどちらの状況を選択しますか。必ずどちらかを選んでください。

……実は、この問いに答えはありません。何が正しいのかという話でもありません。どちらを選ぶのも嫌ですし、悩まれたと思います。この問いかけは、他者との関係なくして、自分という存在は成り立たないということを確認するためのものでした。自分らしさ、アイデンティティというのは、常に自分と他者との関係で成り立っているということ。実は、このことが本質的なコミュニティの意味だということに気付かれたでしょうか。つまり、煩わしいのは嫌だけれど、一人ぼっちも嫌。人には認められていたい。この矛盾のなかで、コミュニティをうまくつくり出し、つき合っていかなくては、私たちは幸せにはなれないということなのです。
次に、この矛盾をどのように解決していけばいいのかという話をしたいと思います。

4. 煩わしさを意識させずにコミュニティを機能させる方法

多くの人がコミュニティを煩わしく思うものだということを前提として、それでもコミュニティを機能させるためにどうすればいいか。そのために私が編み出したコンセプトがあります。それは、「コミュニティベネフィット」という考え方です。これは、コミュニティを目的とせずに、手段とすることで、個人の単位では不可能なほどの大きな価値を実現させるという考え方です。個人単位では手に入らない大きな価値を得るためにはコミュニティが必要で、それを手段として活用しようというのが「コミュニティベネフィット」の考え方です。

このことを先ほどの世田谷の欅ハウスの例で説明しましょう。欅ハウスは、「コーポラティブ方式」という事業方式が採用されました。私たちが集合住宅を購入するという場合、マンション開発会社が建設し、出来上がった一室を購入して住むというのが一般的ですが、コーポラティブ方式の場合は、入居予定者が集まって建設組合をつくり、その組合が発注主となって設計、施工会社と直接契約を結び、集合住宅を建設するという方法で進められます。
こうしたプロジェクトを成功させるための心構えについて、私は参加者に対して次のような説明をします。それは、「仲良くなることが目的ではないので、がんばって仲良くなろうとする必要はない」ということです。参加者全員が仲のいい人間関係が形成されるかどうかは、気にしない方がいい。全員が仲良くならないといけないと位置づけると、それが強迫観念となり、そこにこのプロジェクトに参加することの息苦しさが生まれます。重要なのは、仲がいい悪いに関わらず、個人単位では実現できない価値を手に入れるために協力し合う、という合理主義的な考え方なのです。

ですから、私がコーポラティブ事業をコーディネイトする場合、建設組合活動において「人間関係」をつくりだすことにあえて重きを置かないようにするのです。重点を置くべきポイントは、事業の中で、常にその場面での「コミュニティベネフィット」は何かを明確にすることです。つまり、個人単位では手に入れることのできない大きな価値とは何かを明確にし、その価値創造のための必然として、協力関係を導き出すことを意図するのです。協力し合うことの目的が明確であれば、参加者の合理的な意思に基づいた合意形成が円滑に進みやすくなります。
そして、欅ハウスの場合の「コミュニティベネフィット」こそが、樹齢250年の欅の樹を暮らしの中心に位置付けることだったわけです。
私が実践した煩わしさを意識せずにコミュニティを機能させるということは、そういう方法です。

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